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誰に習いたいか?を決められない世界

  • 執筆者の写真: MEGURU
    MEGURU
  • 2025年12月26日
  • 読了時間: 5分

ジムに通うとき、

複数のトレーナーに教わるのは

普通のことです。


セカンドオピニオンを求めて

別の病院に行くのも

当たり前のことです。




音楽の世界では、

それがタブーでした。




先生を変える。



2人の先生に習う。


それだけで

裏切り」と見なされる。



今考えると、

おかしいですよね。



しかしながら

当時の私は、

それが「普通」だと思っていました。



高校3年。


進路選択の時期が来た。



音楽科の上位の同期は東京芸大や桐朋。


愛知県立芸術大学を目指す子もいました。




国立に行けなければ

「負け組」


そんな空気がありました。



3年になると音楽科は

さらにピリピリしていました。




D先生は言いました。


「君は東京へ行きなさい」



愛知にいても広がらない。

東京で学べ。

そう言われました。




D先生が同級生のフルートの

先生を紹介してくれました。



国立音楽大学のO先生です。




高校3年の時から月に1回

新幹線でレッスンに通うことになりました。

名古屋から東京の先生の自宅までまで

片道2時間半。




1時間のレッスンで日帰りでした。



費用はもちろん高かったと思います。

新幹線代もありましたし。



ただ、 親はすんなりと

出してくれました。



この月1回のレッスンを

無駄にしないように。




そんな気持ちで毎月

気を引き締めて通っていました。




O先生は背が高くて

白髪の少し長めの髪型が


ハリーポッターの

『スネイプ先生』みたいでした。


(もっと1000倍優しい雰囲気でしたが笑)





初めてのレッスン。


「なかなかいい線いってるね」


と褒められました。




D先生の基礎練習の成果が

出ていたのかもしれません。



しかし

今まで気にしてなかった

ビブラートやフレージング。




O先生は そういった

「音色」や「表現」を

丁寧に教えてくれました。




O先生はとにかく

「音作り」1点でした。



「テクニックなんて自分で練習しておけ」

というスタイル。




D先生とは真逆でした。




今までとにかく技術!

という練習をしていました。




私は

この先生の元で4年間 みっちり

良い音とは何か?」 を

追求することになるのです。




O先生のレッスンを受けて

国立音楽大学が

本命になっていきました。




東京芸大も受けました。


「みんな受けるから」



それだけでした。



何を学びたいか。

どの先生に習いたいか。

全く考えていませんでした。




・・・・




なんとなく。




今思えば


これが良くなかったのかもしれません。




当時の音楽界は師弟関係が厳しかった。




師匠のつながりや紹介がないと

自分の意思だけで


「この先生に習いたい」


「この大学に行きたい」

とは言いづらかった。





昨年、大学の同期と集まったとき


誰かが言った言葉が印象的で

覚えています。




「門下を変えるって、

自民党なのに急に立憲民主党の縄張りに


入っていくようなタブーだったよね」




その場にいた全員が、


「そうそう!」と声を上げました。




20年前のクラシック業界には、


そんな雰囲気がありました。




私はそのタブーを守っていました。


導かれるままに進路を決めていました。



しかし冒頭でも書きましたが



ジムに通うとき、

複数のトレーナーに教わるのは

普通のことです。


セカンドオピニオンを求めて

別の病院に行くのも

当たり前のことです。


音楽の世界では、

それがタブーでした。



先生を変える。


2人の先生に習う。



それだけで

裏切り」と見なされる。





今考えると、

おかしいです。



しかしながら

当時の私は、

それが「普通」

だと思っていました。




東京芸大の1次試験。



アンデルセンの

エチュードと スケールを吹きました。



いつも通り緊張はしませんでした。


指だけは完璧だったはずなのに、


なぜか課題曲で

結構ミスをしてしまいました。



気が緩んでたのかな。




結果は、 不合格。




落ちた時の気持ちは


ちょっとがっかり。




でも、 めちゃくちゃ行きたい


というわけじゃなかったので



まあ、 そんなもんか。


と思いました。




ちなみに同期のEちゃんは

東京芸大に合格しました。



Eちゃんは 私みたいにめちゃくちゃ

練習するタイプではないけど


本番にだけなぜか

強いタイプでした。




そして、 タブーを気にせず

自分の行きたい大学

自分で選んだ先生のもとへ

進んでいった。




嫉妬がありました。


正直に言えば


心から「おめでとう」とは言えなかった。




彼女は自分で選んだ。


私は導かれた。




その差が


複雑な感情を生んでいました。



それでも

お互い東京に出ることになったし


違う大学だし


いろんな情報交換とか

できたらいいなぁと思いました。




国立音楽大学は

すんなり合格しました。




D先生は最後に言いました。


「O先生にしっかりついていくんだよ」




中学生の時

N先生が

「D先生にしっかりついていくんだよ」

と言ったのと同じでした。




師匠のバトンが繋がれていく。

私は導かれるままに

東京へ向かいました。



音楽科での3年間。




階級社会を知り


脱落者を見て


ジムに通い


小山くんとの差に絶望し





「楽器のうまさ=存在価値」




そんな間違った自己肯定感の芽を

育ててしまった3年間。




そして

常に誰かに導かれて


進路を決めてきた3年間。




良い師匠に恵まれた。


しかし


自分の意志で

選んだわけではなかった。



Eちゃんは自分で選んだ。


私は導かれた。




どちらが正解だったのか


いまでもよくわかりません。



ただ

「楽器のうまさ=存在価値」

という歪みは


まだ終わっていませんでした。



むしろ東京で


さらに強化されることになるのです。

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